いすゞの2枚看板ジェミニとピアッツァ=Look back over the ISUZU P&J=
最終更新日 2021/9/17
いすゞ自動車はトラックおよびバスを中心とした日本を代表する商用車メーカーです。大友康平の歌う「走れ走れ~いすゞのトラックぅ~♪」と言うCMソングもよく耳にしますが、そんないすゞも日韓ワールドカップのあった2002年までは乗用車も手掛けていました。
とは言えもはや18年も前のことなので、二十歳前後の方はいすゞのクルマといってもピンとこないでしょう。
引用:https://aucfree.com/
いすゞのメーカーとしての歴史は古く、ルーツをたどれば日本で最初に自動車製造を開始したのは、いすゞであるとの見方もできます(なんと明治44年)。
得意分野は大型ディーゼル車両の生産でしたが、昭和28年以降はイギリス車のノックダウン生産を開始し、総合自動車メーカーを目指しました。かつてはトヨタ、日産と並び称される時代もありましたが、結果的に乗用車生産からは撤退となり、大型商用車やディーゼルエンジン開発に経営資源を集中させます。
引用:http://sabitori.com/
しかしながらおよそ50年弱の乗用車生産の期間には、いくつかのエポックメイキングな名車と言えるモデルも開発していて、今日に至るまで大切に乗り続けているユーザーも多くいます。今回のクルドラでは、名車ヒストリーとしてそのいすゞが誇った看板モデル、FFジェミニと初代ピアッツァの歩みをご紹介していきます。
目次(タップで飛べます)
FFへの転身で誕生した街の遊撃手:2代目ジェミニ
ときにクルマのCMで印象に残るキャッチコピーが生まれます。例えば「いつかはクラウン」や「愛のスカイライン」、はたまた「かっこインテグラ」等々。本稿の一方の主役2代目ジェミニの「街の遊撃手」というコピーもまた、十分に後世に残る名文句だと思います。
いすゞ自動車にとってジェミニはとても大きな存在で、販売の中心にはいつも同車がありました。初代モデルは当時資本提携のあったGM(ゼネラルモーターズ)との関係から、オペルカデットをベースとしたモデルであり、徐々にいすゞの手が入っていくものの「純いすゞ車」とは言い切れない素性でした。車名のジェミニもカデットとの双子(Gemini)の意味を持ちます。
しかしシンプルかつスポーティなキャラクターに、いすゞ製のディーゼルやDOHCエンジン等も加わり、ラリーフィールドの活躍もあってジェミニの名称はクルマ好きのハートを確実に捉えました。
約12年間もの販売期間を経て、ジェミニは初のモデルチェンジを受けます。
FF化により本物のコンパクトカーを目指す
GMの世界戦略車という立ち位置は初代同様ながら、もっとも大きく変わったのは設計から開発、製造までいすゞ自動車が行ったこと。また駆動方式が従来のFR(後輪駆動)からFFへと切り替わったことでしょう。
引用:https://www.sun-a.com/magazine/
2代目FFジェミニの登場は1985年です。クルマのキャラクターがかなり違うためか、初代モデルも一部のスポーツグレードを中心に販売が継続されます。そのためFRの初代と区別する意味もあり、2代目はFFジェミニと呼ばれました。
デビュー直後は1.5ℓ直4SOHCエンジンの4ドアセダンと3ドアハッチバックに、各々2グレードとシンプルなランナップが用意されました。
欧州調の内外装デザインでクオリティアップ
2代目の特徴は何と言ってもそのプレーンかつクリーンなエクステリアでしょう。初代よりも一回り小型化されましたが、そのデザインは当時いすゞとの関係が深かったジョルジェット・ジウジアーロの手が入っています。
インテリアは欧州車調でこちらもシンプルながら質感の高さが伺えます。特にシートはソファのように見える形状でニューテックシートと呼ばれ、FFジェミニのセリングポイントでもありました。
引用:https://www.asahi.com/
モデルチェンジ直後は、クリーンだけど初代モデルが持っていた尖った感じがまるでなく、こんなに地味で大丈夫かとの評価もありました。しかしクルマ自体は先のシートのようにいすゞらしい拘りに溢れ、「クオリティコンパクト」という商品コンセプトは再び市場に受け入れられ次第に人気モデルへと進んで行きます。
その年の日本産業デザイン振興会主催の1985年度グッドデザイン賞商品にも選出されました。
2代目ジェミニ4年10か月のモデルライフ
いすゞ看板ブランドのイルムシャー投入
前述の通り、FFジェミニの発売当初はとてもシンプルなラインナップでしたが、テレビCMの影響もあり人気が上昇していく過程で小改良や追加バージョンが増えていきます。表では記載を省略しましたが、ジェミニの特別仕様車は季節ごとなど、相当な数が販売されました。
まず、86年には専用の電子制御式ターボ付1.5ℓガソリンエンジン「4XC1-T型」を搭載して、足回りを旧西ドイツの名門イルムシャー社がチューニングしたスポーツモデル「1.5 イルムシャー」が登場しました。
引用:https://nosweb.jp/
このイルムシャーというモデルは、前年にピアッツァで既に展開していましたが、ジェミニにも採用されたことで、いすゞ車における人気ブランドになります。
マイナーチェンジで個性派マスクを手に入れる
87年にマイナーチェンジが実施され、エクステリアではヘッドライトを中心にグリル、バンパー、フェンダーとフロントマスクをガラリと変える変更が行われました。FFのジェミニも市場から高評価で迎えられたことで、リヤバンパーまで含め結構大胆に手を入れてきました。
引用:https://twitter.com/resort_music
無個性が個性のような佇まいさえあったマイナー前に比べると、マイナー後はサイドマーカーまで含めて「ツリ目」と”あだ名”されたように、少々色気づいた雰囲気を感じます。
インテリアでもメーターフードがステアリングの弧に沿うようにラウンドした形状になり、こちらも少し艶っぽくなったでしょうか。
なお、このマイナーのタイミングで初代FRジェミニの併売が終了したため、FFジェミニは唯の”ジェミニ”となりました。
コンパクトセダンに”オープンルーフ”まで設定
少し遅れて「ユーロルーフ」グレードが追加になります。
これはジェミニのルーフをキャンバストップに変更したモデルです。電動オープン式となり、面白いのはハッチバックだけでなく4ドアセダンにも設定があったこと。似合いそうなのは3ドアハッチバックですが、ジェミニの販売実績は4ドアが高いことが要因でしょう。
設定の背景には、当時若者を中心にバイクブームが来ており、”風を感じて走る“的な需要があると睨んだ開発者コメントを読んだ記憶があります。まぁまだマツダロードスターが発売となる前であったことを考えれば先見の明があったと言えますかね。
英国の名門ロータスが手掛けたジェミニ
引用:http://kibougou.blog104.fc2.com/
88年にジェミニに新風が吹きます。それが「ZZハンドリング・バイ・ロータス」の追加です。既にジェミニにはイルムシャーという海外チューナーが手を掛けたモデルがありましたが、このロータス仕様が追加となることで、初代ZZ-Rが持っていた”走り”のジェミニをより印象付けることに成功します。
当時、ロータスはいすゞ自動車と同じGMの資本下にあったため、協業が成立したのでしょう。具体的にはいすゞはグループ・ロータス・パプリック社と10年間の提携契約を結び、ロータスからは技術コンサルテーション、いすゞからは新型エンジン供給など相互の協力を進めることになりました。そもそも日本で「ロータス」の知名度は、かの”サーキットの狼”ブームの影響もあり抜群でしたから、強力な飛び道具となりました。
引用:https://carview.yahoo.co.jp/
クルマの方は1.6ℓ4バルブDOHCエンジンを搭載したこと、またロータス社のハンドリングノウハウを生かしたサスペンションチューニングがウリで、機能パーツにレカロシートやMOMO社製ステアリング、BBSアルミ等の一流パーツで武装しているところは先行のイルムシャーと同じアプローチです。
このハンドリング・バイ・ロータスとイルムシャーは、2代目が生産を終え、3代目へフルモデルチェンジした以降も定番のスポーツグレードとして設定が続いていきます。
真摯な造り込みとCM戦略でいすゞ史に残るヒット作に
2代目ジェミニは89年にも2度目のマイナーチェンジを行い、モデル末期まで改良の手を緩めませんでした。
引用:http://www.hasegawa-model.co.jp/
その結果、トータル5年弱の販売期間の中で約75万台を売り上げ、初代が13年で77万台であったことを考えると驚異的な成績です。また、今回は取り上げませんが後継の3代目ジェミニがバブル崩壊などを背景に、極端に失速してしまったことで余計に2代目FFジェミニの実績が光ります。
上の紹介からは漏れていましたが、日本初の自動制御式マニュアルトランスミッションである”NAVi5”の開発など、いすゞの持てる技術を次々と投入し、クルマの出来も相当に良かったことは言うまでもありません。しかしそれに加え、ここまで2代目が販売面で成功したのには、テレビCMの効果が大きかったとはよく言われる話です。
引用:https://journey-cooking.com/
冒頭にも触れましたが「街の遊撃手」というキャッチコピーで、とにかく流れまくっていたという印象を抱かせるFFジェミニのCM。内容はフランスの街並みを数台のジェミニがフィギュアスケートよろしくアクロバティックな走り方を披露する演出となっていて、新作が出る毎にエスカレートしていく内容はお茶の間を驚かせていました。
今ならCGで済ませそうなものですが、何事もリアルにやるしかなかった時代だからこその素晴らしい出来のCMは、間違いなく2代目FFジェミニの人気と知名度を盤石にした立役者であったはずです。
引用:https://minkara.carview.co.jp/
日伊コラボが生んだ名車117の続編:初代ピアッツァ
日本の旧車愛好家にもっとも人気のあるいすゞ車は「117クーペ」で間違いないでしょう。1968年に発売となった117クーペは、いすゞとイタリア人デザイナー、ジウジアーロとのコラボレーション第一弾となったモデルで、ショーカーの雰囲気を上手く量産車で再現し、以降10年以上の間いすゞを代表するスペシャリティカーでした。
引用:https://web.motormagazine.co.jp/
本稿でご紹介するピアッツァは、実質この117クーペの後継モデルと位置付けられる3ドアハッチバッククーペです。ピアッツァ(Piazza)とはイタリア語で「広場」を意味します。
デビューは1981年、117クーペの後継たる所以はその流麗なボディデザインを担当したのが、同じジウジアーロであったことです。ピアッツァは117クーペよりもさらにショーカー(ASSO DI FIORI)との類似性が高く、市販バージョンは「よくぞココまで再現を!」と大きな反響を持って迎えられました。
未来感あふれるピアッツァの造形
引用:https://www.sun-a.com/magazine/
クルマの概要は117クーペ同様のFR方式で、デビュー時のエンジンは初代ジェミニ用の1.8ℓDOHCを1.9ℓに拡大したG200WN型と、同じくSOHC1.9ℓのG200ZNS型を改良したものを搭載。グレードはDOHCの上級装備XEとベーシックなXF、SOHCも同様にXLとXJでスタートしました。
ピアッツァはその斬新なルックスに話題が集中しますが、インテリアも負けず劣らず先進性が高くジウジアーロの面目躍如です。特に個性を感じさせるのがメーターフード回りの前衛的なスイッチ類の配置。
引用:https://car-me.jp/
サテライト型と称されるこのレイアウトは、日本車では初採用であり、ステアリングを持ったままスイッチ操作ができる機能性はもちろん、デジタルメーターと合わせてショーカー的な未来感がクルマのキャラクターにマッチしています。
ジウジアーロデザインの希少なFミラー?
少し違和感があるとすれば、当時の日本の法規に合わせたフェンダーミラーであることでしょうか。もちろん元ネタのショーカーではドアミラーなわけですが、量産化にあたりこのフェンダーミラーもしっかりとジウジアーロがデザインを取りまとめているとのこと。
引用:https://minkara.carview.co.jp/
ジウジアーロがフェンダーミラーをデザインしたのは”初”らしく、そう聞くと今やこのフェンダーミラー車の方が価値も高まる気がします。
実際、日本の法規改正に伴いマイナーチェンジのタイミングでフェンダーミラー車は消滅し、ピアッツァも本来(?)のドアミラーへと変更。初代ピアッツァ10年の歴史の中で、フェンダーミラー車は2年間だけとなりました。
初代ピアッツァはおよそ10年のロングライフ
2.0ℓSOHC最強のターボモデルを追加
ピアッツァは1.9ℓDOHCをラインナップしていましたが、当時世は正にクルマの高性能化、パワーウォーズが過熱していて、ホンダのDOHCが復活した、とかスカイラインが200PSを超えた、とか各社ヒートアップし始めた時期でもありました。
その余波はピアッツァにも及び84年6月に、2.0ℓのアスカ用エンジン(4ZC1-T型)にインタークーラー付きターボを搭載したモデルを投入。グロス値ながらその出力は180PSで、当時2.0ℓのSOHCエンジンとしては日本一のパワーでした。
引用:https://ameblo.jp/old-james-bond/
これに置き換えられる形で、デビュー以来のトップユニットであった1.9ℓのDOHCは受注生産となり、87年のマイナーチェンジ時に消滅します。
いすゞ定番のメーカーチューンモデルも追加!
さらにいすゞはピアッツァの走行性能向上の手を緩めず、翌85年11月には前項のFFジェミニでもご紹介した「イルムシャー」グレードを発売。欧州ライクのしなやかな足回りに、レカロシート、MOMOステアリングの充実装備と、イルムシャーシリーズ専用デザインのフルホイールカバーを装着したスポーティなモデルでした。
引用:https://www.pinterest.jp/
イルムシャーに続き、ジェミニで先行してモデル化されていた「ハンドリング・バイ・ロータス」もピアッツァに導入されます。
その内容も一歩踏み出していて、ロータスチューンのサスにMOMO製ステアリング、BBS製2ピースアルミはジェミニと同じながら、このモデルでは初めてリヤサスペンション形式が変更され、それまでの3リンクから5リンクにする徹底ぶりでした。
引用:https://tourdemichinoku.jp/
デビュー当初はジウジアーロのエレガントなデザインが白眉であり、ピアッツァだけが醸し出す佇まいが大いに魅力であると認識していましたが、時代は各社の看板モデルにはモアパワー、高いコーナリング性能が次々に要求され、いすゞも時流に乗らざるをえなかったようです。
イルムシャーやロータスに見られる固められた足回りや大き目のリヤスポイラーなどは、他方でピアッツァらしくないとの見方も上がっていました。
今、評価される10年後のデザイン
ピアッツァは高い注目を浴び、ある意味センセーショナルなデビューを飾りました。
引用:http://sabitori.com/
しかしやや時代を先行し過ぎたか、はたまたその流麗なデザインと裏腹にサスペンションやエンジンの基本設計が古いというハンデが露呈したかは定かではないですが、営業面では決して成功作とは言えずその”国内“における累計販売台数は4万台程度となりました。
但し、それ故にクルマとしての希少性は高く、デビュー当時「10年後のデザイン」と評されていたルックスが時を経て、ヒストリーカーとしての輝きを増してきているのも事実でしょう。
ヤナセが販売していたピアッツァ
ヤナセと言えば今も昔も輸入車ディーラーの大手であり、ドイツ車・アメ車など多くのブランドを取扱いますが、特にメルセデスベンツのインポーターとして有名です。
引用:https://www.isuzu-sports.com/
その外車専門ディーラーがいすゞのピアッツァを販売していました。背景はシンプルで、当時のいすゞ自動車はGM傘下にあり、国内におけるGMディーラーがヤナセでした。トヨタ、日産に比べると国内販売網が弱かったいすゞとしては、販路が拡大できること、ヤナセも販売車両のバリエーションを増やせることで思惑が一致したわけです。
ヤナセで販売するにあたり、いすゞディーラーのモデルと差別化するため「ピアッツァ・ネロ」が開発されました。その特徴はボディカラーが黒しかないこと(後に他色も追加)。そもそもその意味合いから車名にも「ネロ」(伊語で黒の意味)が付加されたわけですが、その他にもヘッドライトが角形の4灯式である点も違いです(84年以降)。
引用:http://mihara-jidousha.com/
これは北米の保安基準規格に合わせた輸出仕様をそのまま「ネロ」用に展開したもの。黒の車体色や金・銀のピンストライプなどと併せ、契約上ヤナセ専用の装備が必要だったのです。
元々イタリア人デザイナーによる日本車離れしたルックスは、輸入車と言われても違和感はなくヤナセブランドに合っていたと感じます。また、ピアッツァ・ネロの新車時価格は250万円くらい。今の車で言えば400万円オーバーのレンジなので十分ヤナセ的と言えるかも?
追憶の中で煌めくISUZUの2車種
いすゞ自動車はトラックメーカーとしての立ち位置から、ジェミニやピアッツァによって総合乗用車メーカーへの転換を図ろうと、持てる技術をフルに投入し極めて個性的なモデルを輩出したものの、その地盤が固まる前にバブル崩壊と言う憂き目に会い、3代目ジェミニ、2代目ピアッツァはいずれもモデルライフ途中で市場から姿を消しました。
引用:https://gazoo.com/
しかし現在の商用車メーカーとしてのいすゞ自動車の業績を見れば、当時の乗用車撤退という判断は間違ってはおらず、取捨選択が“吉”と出たと評価できるでしょう。
それでもピアッツァやジェミニを思い返すとき、夢物語ですが再びいすゞ自動車が国産乗用車市場へ電撃復帰したなら、果たしてどのようなクルマを披露してくれるのか?と思うと少しワクワクするのです。
引用:https://japaneseclass.jp/
以上、クルドラ的名車ヒストリー「いすゞの2枚看板ジェミニとピアッツァ」でした。
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